徳川義崇のProfile


コンピュータ業界で自分が係わってきた出来事を中心に書いているので、業界人じゃないとわからない単語があっちこっちに登場するけど勘弁してね。

1961 東京に生まれる。
1966 学習院幼稚園へ入園。以降、小中高大と20年以上にわたり学習院で学生生活を過ごす。
1979 高校の選択科目の授業で初めてコンピュータに触れる。ちなみに習った言語はBASICで、コンピュータは高校に隣接する大学の大型計算機センタの汎用機でした。機種は三菱のMELCOMでOSはUTS/VSってやつで、プログラムをカードリーダで入力してバッチ処理で実行結果を確認するって方式でした。
1980 学習院大学経済学部経済学科に入学。入学祝に親戚から金を集めてNECのPC-8001を買いました。プログラム作るのが楽しくて楽しくて、夜が明けたのも気がつかずにプログラミングに熱中する日々が続きました。今思えば、このときパソコンを買ったことが、この後の私の人生に大きな影響を与えていたのでした。
1982 この年くらいから、プログラマのアルバイトを始めました。事務計算のプログラムや回帰分析のプログラムを作ったりしてました。
1983 パソコン好きのお医者さんと付き合いがあったんだけど、そのお医者さんに頼まれてレセプト発行システムを作りました。当時発売されて間もなかったPC-9801を買ってもらって、大喜びでプログラム作ってたなぁ。C言語を使い始めたのもこの頃だな。UNIXにも興味があったんだけど、身近に使える環境がなかったので憧れているだけでした。
1984 本当は大学卒業の年なんだけど、何故か卒業せずにプログラミングに没頭してました。アスキーでアルバイトを始めたのもこの頃からです。あまり自慢できることではないけど、このころはゲームソフトやビジネスソフトのコピープロテクトをはずすことに燃えてました。コピーすることが目的ではなく、プロテクトをかけた人との知恵比べが楽しくて、まるでパズルで遊ぶ子供みたいに嬉々としてプロテクトをはずしてましたね。このおかげで、プログラムの解読能力が身についたのだと思います。自分にはプログラマの才能があるのかもしれないと思い始めたのはこの頃だと思う。
1985 バイト先へプログラムを送信するために前々からモデム(音響カプラ)を持っていたんだけど、コンピュータがいっぱいつながったらもっと楽しいことができるんじゃないかと思っていたところに始まったのがアスキーネットで、これにはハマリました。300bpsのカプラで一晩中アクセスしてましたね。雑誌の原稿書きや洋書の監訳などのバイトを始めたのもこの頃からだったと思う。
1986 憧れのUNIXが思いっきり使えるという単純な理由で、麻布のマンションの一室にあったダイデンインテリジェンステクノロジー(現在のディアイティ)という小さい会社でアルバイトを始めました。Sunがいっぱいあって(Sun2が2台とSun3が2台)、好き勝手に使わせてもらえました。当時としては画期的な2400bpsのモデムがゴロゴロ転がってて、そのうち1台を持って帰って家から2400bpsでアクセスできたのがすごく嬉しかったなぁ。インターネットの神様なんて呼ばれたりして神格化されつつある慶応大学の村井純先生との出会いもこの年です。
1987 この春にやっと大学を卒業しました。今じゃ考えられないことだけど、この当時社会人がUNIXのソースコードを見たいと思ったら、新入社員の年俸じゃ足りないくらいたくさんのお金を払ってソースライセンスを買わないと見られなかったんです。ディアイティはソースライセンスを持ってたので、憧れのUNIXのソースもばっちり見られたし、前にも書いたように思いっきりSunを使えたので、アルバイトから引き続いて社員になってしまいました。ディアイティは創業当初からアメリカの会社と電子メールで連絡を取っていたんだけど、この年に現在の日本のインターネットの前身とも言えるJUNETに接続し、国内でも電子メールが使えるようになりました。今では知っている人もほとんどいないけど、この当時はEMACSと言えばGNU EMACSではなくてUniPress EMACSのことを指す場合が多かったんだけど、このUniPress EMACSの日本語化をやってたのはこの頃ですね。
1988 パソコン通信でも電子メールは使っていたけど、サービスがホスト側にあってあまり手が出せなかったので、自分で工夫できる余地が少なかったんだけど、JUNETは「手作りのネットワーク」って感じが強くて、自分で工夫できる点がいっぱいありました。自分が頑張れば頑張った分だけコミュニケーションの輪が広がるのが楽しくて、あっちこっちをつなぎまくったなぁ。IMAGENっていうネットワークプリンタを売っていたんだけど、アメリカ製なので付属のソフトだけじゃ日本語が全然使えなかった問題を解決するために、日本語TeXのドライバをはじめとする日本語環境をhackしてたのはこの頃だったと思う。ちなみにWIDE Projectの活動が具体化したのはこの頃からだけど、当時はまだ海外のインターネットとつながっていたわけではないので、海外のフリーソフトを入手する手段がほとんどありませんでした。そんな状況の中で、私はネットニュースから得た情報を頼りにして海外のサイトに国際電話をかけまくってフリーソフトを集めてました。集めたフリーソフト(主にGNU)を自分だけで使っているのはもったいないと思い、フリーソフトのコピーサービスを始めたのがこの頃ではないかと思います。JUS(Japan Unix Society)の幹事になったのもこの頃でした。今はなくなってしまったけど、JUSが主催するUNIX Fairというイベントの運用を本格的に手伝い始めたのもこの年からでした。
1989 個人的には以前から係わっていたけど、この年からディアイティがWIDE Projectに参加したので、仕事としてネットワークの研究ができるようになりました。
1990 この年の9月にディアイティがインターネットにつながりました。嬉しかったなぁ。JUNETもWIDEも商用サービスではないので運営はボランティアベースだったけど、ボランティアだからこそ、「ボランティアだからこんなもんだろう」と思われるのが嫌で、広域ネットワークを安定運用することに命をかけてました。今みたいにプロバイダにお金を払えば面倒を見てくれる時代じゃなかったし、実際にトラブルも多かったんだけど、そこがまた楽しいところでもありましたね。
1991 ライセンスフリーのBSD UNIXである386BSDがリリースされた記念すべき年です。残念ながらPC互換機を持っていなかったので、この頃はまだソースを眺めているだけでした。この頃から、接続希望組織が急増したため、JUNETをボランティアベースで維持することが難しくなってきました。何人かの有志で集まって、JUNETを管理する組織(後のJUNET協会)を作ろうという相談を始めたのもこの頃からです。
1992 春にBSDIのBSD/OS(当時の製品名はBSD/386)を買いました。商用OSだけど、386BSDと同様にBSD系の流れを受け継いだUNIXで、ちゃんとソースコードもついてます。香港まで行って調達してきたPC互換機にBSD/OSをインストールして使い始めたんだけど、バグを見つけるのが楽しくて楽しくて、毎日カーネルいじりまくってたなぁ。このときから、私とBSD/OSとのながーーーい付き合いが始まったのでした。PCは数十万で買えるけど、当時はSunもないと困ることが多かったので、自腹でSPARCstation IPXを買ったのもこの年です。オプションまで含めると、なんだかんだで300万円くらいしたなぁ。INET'92の運営のために神戸に行ったのもこの年だな。翌年から開始されるであろう商用ネットワーク接続サービスへJUNET参加組織が円滑に移行できるようにJUNET協会を発足し、私は副会長に就任しました。ちなみに初代会長は吉村伸でした。
1993 インターネット時代の幕開けです。IIJをはじめとする商用IP接続サービスプロバイダが接続サービスを始めました。プロバイダの登場に伴い、発足して1年しかたっていないJUNET協会は、協会加入組織の商用サービスへの移行を促すべく、発展的に解散する方向で準備を始めたのでありました。ちなみに2代目の会長は砂原秀樹で、私は初年度に引き続き副会長をやっていました。今じゃ当たり前のことだけど、WIDE ProjectとNiftyServeとの共同実験により、国内のパソコン通信サービスとインターネットが初めてつながったのもこの年でした。この年の暮れにGateway2000のHandBook 486DX2-40っていうLapTopを買いました。これで家や会社だけでなく、出先や電車の中でもhackができると喜んだものでした。このHandBookとの出会いが、後にWildboarと呼ばれるBSD/OS用のAPM/PCMCIAドライバの開発に私をのめり込ませるきっかけになることに、この時にはまだ気がついていませんでした。
1994 この年はJUNET誕生から10周年にあたる記念すべき年です。JUNET協会はこの年の秋に解散しました。12月には関係者を招いてJUNET誕生10周年記念兼解散式を開き、ボランティアによるネットワーク運営の時代はここに幕を閉じました。KDDの協力により運営されていた、JUNET参加組織と海外のサイトとのメール中継サービスを行っていたInetClubが解散したのもこの年の暮れでした。ネットワーク関連の最大イベントであるNetworld+Interopが国内で最初に開かれたのもこの年です。私はWIDE Projectのメンバ数名と一緒に、このイベントのネットワーク運用部隊であるNOCチームに参加しました。こういうイベントはUNIX Fairで慣れているつもりだったんだけど、そのスケールの違いには圧倒されました。昨年末にLapTopを買ってから、LaptopでUNIXを快適に使うためのhackに燃えました。LapTopを使いこなすためには、Suspend/Resumeを活用することと、PCCARDを使えるようにするってことがすごく重要なんだけど、当時のUNIXではこのどちらもまともに使えませんでした。最初のうちはHandBookを持っている仲間を中心にhackしてたんだけど、秋から他のLapTopユーザも巻き込んでhackするようになりました。
1995 これまでもちょっとだけ手伝っていたんだけど、この年の春から家業(財団法人徳川黎明会)と業界人としての完全な2足草鞋生活が始まりました。HandBookだけでは物足りなくて、DECのHiNoteUltraを買いました。国内で売っているJISキーボード仕様が嫌で、わざわざ某商社に逆輸入してもらってASCIIキーボード仕様を手に入れました。すごい苦労してASCIIキーボード版を手に入れたんだけど、気がついたら国内でもASCIIキーボードがオプションで入手できるようになっていました。はっきり言ってこんときには「ちくしょー」って思いましたね。このマシンを手に入れてからWildboarの開発に拍車がかかり、秋には一部の人にしか公開していなかったWildboarを、国内外のBSD/OSユーザを対象にαリリースしました。これまでBSD/OSの国内代理店はForetune数理システムだったんだけど、この年の秋に突如としてマクニカが国内の総代理店になり、しかもBSD/OSを値上げす ることになったので、NetNewsを中心にマクニカに対する不平不満の声が乱れ飛びました。私はBSDIの人と仲がよかったので、日本のユーザの怒りの声をBSDIに伝えて、極東地区担当のセールスマネージャとかなり激しい議論をしました。この議論の内容をNetNewsで伝えたんだけど、このときに私が「UNIX Fairにマクニカが出展したら生卵を投げつけよう」という発言をしたのが話題となり、UNIX Fairの会場で知り合いばかりでなく見ず知らずの人にまで、「本当に卵持ってきてるんですか?」とか「卵買ってきましょうか?」なんて声をかけられ、挙句の果てにはマクニカの人に、「もうちょっと早く言ってくれればブースをキッチンみたいなデザインにして卵を用意したのに」とまで言われてしまいました。Windows95がリリースされて、社会的にインターネットが注目され、「インターネット」という言葉が流行語大賞になったのもこの年ですね。
1996 今までだと、「お仕事は?」と聞かれて「インターネットの研究です」と答えても何のことだか理解してもらえなくて、いちいち説明するのに苦労したんだけど、この年から仕事の内容を説明するのが楽になりましたね。でも、マスコミの適当な報道のせいで間違った(中途半端な)知識を持ってしまった人が増えたので、正しい知識を広めるのに苦労するようになりました。相変わらずWildboarの開発に没頭する日々が続いていたんだけど、BSD/OS 3.0にWildboarが取り込まれることが決定しました。BSD/OSの開発には従来から関与していたけど、これをきっかけに今まで以上にBSDIとの係わりが強くなりました。
1997 この春で就職して満10年を迎えました。10年経ったからというわけではないけど、前にも書いたように家業の方も手伝っていたので、家業が忙しくなったのを理由としてディアイティを退職しました。でも、別に業界から足を洗ったわけではなく、ちゃんと今でもWIDE Projectの研究活動は続けています。1994年から手伝っているInteropのNOCチームの手伝いも相変わらず続けているし、Wildboarの開発も相変わらず続けています。この年の春には、Foretuneの協力もあって、BSD/OSの開発パートナーとしてBSDIに正式に認められました。家業の方でも、今までの業界経験を活かして、データベースのオンライン化を推進したり、Image Mall Japanという日立凸版印刷の共同事業である文化財や美術品を中心としたデジタルアーカイブ運用プロジェクトの実験に参画したりしました。WIDE Projectの協力のおかげで、この春から私の家と徳川黎明会がインターネットにつながりました。
1998 Wildboarのhackは続けていましたが、最新のLaptopを買い続ける根性がなくなってきたので、さすがにペースが落ちてきました。もうちょっと新製品に依存しないhackもしたいなと考えはじめたのはこの頃でしょう。BSD/OS 4.0はIPv6対応なので、v6の勉強してWIDEで開発しているIPv6のhackでも手伝おうかななんて考えました。秋にSONYのVAIOノート505RXを買いました。これでやっとCardBusが使えるようになったので、WildboarのドライバをCardBus対応にしようと思ったのですが、これが思ったよりもやっかいでめげてしまいました。この年に、(財)新映像産業推進センターから補助金をもらい、日立製作所の協力を得て、徳川美術館が所蔵している国宝源氏物語絵巻をデジタル技術を駆使して製作当時の色に復元してみようというプロジェクトが発足しました。
1999 昨年発足した源氏物語絵巻のデジタル復元プロジェクトは、通産省の補正予算からも補助金が支給されることになり、当初の計画よりもかなり大規模なプロジェクトになりました。
2000 この年の1月30日に結婚しました。11月からは、ディアイティ時代の仲間が作ったZIONという会社の非常勤取締役技術顧問に就任しました。


これまでやってきた主なこと(順番は適当です)



その他の個人情報

星座 乙女座
血液型 O型
身長 185cmくらい
体重 90Kgくらい
性別
好きな食べ物 酒・辛いもの・甘いもの
趣味 hack hack hack・食べること・テニス(いつもここでテニスしてます)
映画鑑賞・音楽鑑賞